作曲活動再開するまでの

40歳ぐらいの男が15年ぶりに作曲活動をはじめるにあたって全部

②作曲が大切だったんだ

15年以上作曲活動をやめていた。

作曲はやっていた。

 

音楽が好きで、作曲が好き。

止められるはずがなかったのかも知れない。

 

どのぐらい好きか。

魅力的な女子より好きだ。絶対そうだった。

 

活動していない間はパソコンで作曲した。

曲を公開した。

例えば芸人がステージでショーをする活動ではなく、ファミレスの1テーブルで考えが決まってる人の形だけの相談に乗る行為に過ぎなかった。

その界隈の雰囲気や公開の為に関わった人のことを考えると合わせることが自然だ。そして自信がなく活動が出来ない本心を偽ることを覚えた。

匿名だから、大丈夫だ。そんな愚かな発想に囚われ自分を貶めてしまった。

相談に乗る行為は、実際には厳しい競争の場に参加することだった。一番出来ないことだった。しかしそれに気付くまでのホンの1か月、僕は戦ってしまった。ミックスは酷いし編曲も足りない。だが曲は良いものを公開できた。そしてすぐに後悔していた。当然僕から何の活動方針も滲み出てこない。

自分が矢面に立つ気のない公開は、結局無責任だと思える。

僕は活動する気はないことを徐々に周知浸透させることをし、適当な位置をキープできるだけの公開を続けることにした。これは何年間も続けた。

 

1カ月間戦った時に、良い反応があった。僕もその時は空気に飲まれ自分を忘れ素直だった。後悔はなぜ訪れたのか。それはある可能性を知ったからだ。僕は音楽でしか戦えない可能性は、猫好きが猫カフェに一度は足を踏み入れる程度に存在する。

 

僕は取り柄が無い。音楽以外で何か特別な成功体験が無い。

 

ーーだめじゃんーーー

 

音楽以外で成功体験を得たいと思って10年あがいた。結局、正社員になって人助けを幾らかできたぐらいで、社会に圧倒的に迷惑をかけた気がする。

そして今となっては、正社員を自ら拒む。

彼女か仕事かだったら彼女を選ぶ。彼女の為に仕事は出来る。

彼女か作曲なら作曲を選ぶ。作曲の為に彼女なら、それは単なるサイコパスだ。作曲の為に仕事なら出来る、これは成り立つ論理だ。

 

今月は、ピアノ曲の譜面を追いかけながら、その勢いと繊細さに心から感動した。僕が目指すのはクラシックの音楽家ではないが譜面で再現を試みるとき、その気配りと演出にただただ尊敬の念を抱くんだ。

 

寒い音は作れる。シンセで、生楽器で、やり方は色々あるはず。

寒い音が欲しくて、思い付きで今北海道の空気を録音しても、きっとどうしても足りないことがある。真実だけなら「作曲」はいらないのかも。

 

②作曲が大切だったんだ、終わり